2017.03.02

6年前の3月11日

(辛い思い出)

 

6年前の3月11日、私は全日本幼稚園連合会の理事会のため、ホテル東京お茶の水のガーデンパレスにいました。1度目の大揺れの時に、男の先生の中には鞄を持って、外に出られた方がいました。私は外に出てもどこが安全かわからず、会長・副会長の先生達は座っていましたので、私も何かあったら机の下に入れるような体制で座っていました。大きく揺れて、飾り付けのカーテンが外れたりしていました。揺れが少しおさまり、おおよその先生達が戻ってきました。監事の私が、監事講評をしなければならなかったのですが、「長い講評をしていられません。安全にお帰り下さい。」と締めくくり帰路につきました。

 

私はお茶の水の駅で友達と会う約束をしていました。駅では電車が止まってしまい、中から乗客が出てきているところで、人が沢山で友達を探す事も出来ず、携帯電話をかけました。何回目かに友達が出ましたが、途中の駅で止まってしまったとのことで、「会うことはやめて帰りましょう」という事にしました。

 

タクシーに乗ろうとしても空車は来ない。道路にいる沢山の人は歩いていました。東京駅にからバスが出ているのではないかという望みを持ち、山手線沿いに歩きました。

 

東京駅では沢山の人がおまわりさんに確認していましたが、電車もバスも出ていないとのことでした。

次に考えたことは、品川駅に行ったら、ホテルが空いているかもわからないという望みを持ち歩きました。歩きながら札幌と連絡を取りました。「ホテルはどこも空いていないらしい」「学校が避難場所になっているとテレビで放映されているよ」など、何度も掛ける中、わずかな通話で知ることができました。

 

品川駅についてまずホテルに入りました。ホテルの1階には毛布にくるまったたくさんの人がいました。上の階の人が危険のないようにと階段を使って下りてきていました。「新規の宿泊はできません」と放送が流れていました。ホテルの宿泊もあきらめ。ホテルで30分も並んでトイレに行き、次に歩く準備をしました。

 

品川から京急の電車線に沿って歩きました。途中のコンビニでお水とパン、充電器を買いました。コンビニではどこに行くのと聞かれ、「羽田空港まで」と話すと「お酒を飲んでいなければ送ってあげたのに」と言って、手に持っていたジュースを2本下さった方がいました。

 

建物などが少なくなるとこの道でいいのかなと不安になりました。向かい側からキャリーバックを引いたお兄さんが歩いてくるのを見て「どこから歩いてきたのですか」と尋ねると羽田空港と言われました。どのくらいの時間がかかったのですかと聞くと、2時間くらいと教えてくれました。

 

私は、それまでに8時間も歩いていたのです。あと2時間くらい大丈夫と思いながら、そのお兄さんが歩いてきた方向に歩きました。空港の入口に交番がありました。交番に入って国内線第1ターミナルに行くにはどう行ったらよいのかと聞きました。道順を教えて頂いた後、お茶の水から歩いてきたと話すとびっくりして、カイロを2つと暖かい缶コーヒーを下さいました。教えて頂いた道筋で、歩きました。国際線ターミナルに行き、循環バスに乗って第1ターミナルに着きました。

 

空港のターミナルは人がいっぱいで、段ボールを敷いて、毛布を掛けて寝ていました。

16時から歩きはじめ、2時に空港についた私は毛布もなければ、段ボールもありませんでしたが、人のいる安全なところにいるだけで、安心して床に座ることができました。

 

被害にあわれた方々、亡くなられた方々のことを思うと、どんなに疲れていても、安全な場所にいることができたことは、幸せなことでした。

 

私たちは、子ども達の命をお預かりしているという事が一番重要なことです。

その時以来子ども達の安全を確保するためには、どうしたらよいか、先生達と一緒に考えていかなければならないことの一つになりました。